名城の旅⑦ 金沢城
天正8年(1580)加賀一向一揆の拠点である金沢御堂を
織田信長軍の佐久間盛政が陥落させ、そこに城を築いたことに始まる。
天正11年(1583)前田利家が加賀に入封して、
犀川と浅野川にはさまれた小立野台地上の金沢城を
加賀支配の拠点とすべく近代城郭へと改修した。
基本的な縄張を行ったのはキリシタン大名の高山右近といわれる。
天守は慶長7年(1602)の落雷により焼失。
残念ながらその姿については記録がなく不明である。
名城の姿を壮美にするために取り入れたといわれる鉛瓦や海鼠壁、
唐破風付出窓や二重二階の多聞櫓なども、
加賀百万石の居城にふさわしい格調の高さと美しさを見せている。
(『日本100名城ガイドブック』より)
駐車場を降りた後、有名な兼六園を左に、百間堀跡を右に見ながら、
石川橋を渡って、金沢城の搦手門、石川門に入る。
天明7年(1787)に再建された枡形門で
外側に高麗門、内側に櫓門が配置されている。(写真下左)
石川門をぬけ、三の丸に入ると、正面に五十間長屋が見える。
(写真下右)
右に菱櫓、左に橋爪門続櫓を配する姿は金沢城で最も絵になる建物だ。


橋爪門をくぐり(写真下左)鶴の丸に入り、本丸へ向かう。
鶴丸倉庫、丑寅櫓跡、辰巳櫓跡をみて、本丸跡へ。
ここにかつて、華麗な天守が建っていたとされる。
落雷によって焼失したが、天守の姿を伝える資料が残っておらず、
幻の天守となっているのは、極めて残念なことである。
乾櫓跡、鉄門櫓跡を過ぎると、現存する三十間長屋が目に入ってきた。
長さ40m、二重多聞櫓で安政年間(1854~60)に建立された。
(写真下右)
そこから、二の丸に出て、五十間櫓を反対側から眺める。
二の丸南側に出て、切手門から河北門跡を通って、再び三の丸へ戻る。


帰りは日本三名園のひとつ、兼六園を散策した。
壮麗な天守こそ残っていないが、加賀百万石の繁栄の跡が随所に残り、
名城と呼ぶにふさわしい城だった。
《平成18年10月14日 登城》
織田信長軍の佐久間盛政が陥落させ、そこに城を築いたことに始まる。
天正11年(1583)前田利家が加賀に入封して、
犀川と浅野川にはさまれた小立野台地上の金沢城を
加賀支配の拠点とすべく近代城郭へと改修した。
基本的な縄張を行ったのはキリシタン大名の高山右近といわれる。
天守は慶長7年(1602)の落雷により焼失。
残念ながらその姿については記録がなく不明である。
名城の姿を壮美にするために取り入れたといわれる鉛瓦や海鼠壁、
唐破風付出窓や二重二階の多聞櫓なども、
加賀百万石の居城にふさわしい格調の高さと美しさを見せている。
(『日本100名城ガイドブック』より)
駐車場を降りた後、有名な兼六園を左に、百間堀跡を右に見ながら、
石川橋を渡って、金沢城の搦手門、石川門に入る。
天明7年(1787)に再建された枡形門で
外側に高麗門、内側に櫓門が配置されている。(写真下左)
石川門をぬけ、三の丸に入ると、正面に五十間長屋が見える。
(写真下右)
右に菱櫓、左に橋爪門続櫓を配する姿は金沢城で最も絵になる建物だ。
橋爪門をくぐり(写真下左)鶴の丸に入り、本丸へ向かう。
鶴丸倉庫、丑寅櫓跡、辰巳櫓跡をみて、本丸跡へ。
ここにかつて、華麗な天守が建っていたとされる。
落雷によって焼失したが、天守の姿を伝える資料が残っておらず、
幻の天守となっているのは、極めて残念なことである。
乾櫓跡、鉄門櫓跡を過ぎると、現存する三十間長屋が目に入ってきた。
長さ40m、二重多聞櫓で安政年間(1854~60)に建立された。
(写真下右)
そこから、二の丸に出て、五十間櫓を反対側から眺める。
二の丸南側に出て、切手門から河北門跡を通って、再び三の丸へ戻る。
帰りは日本三名園のひとつ、兼六園を散策した。
壮麗な天守こそ残っていないが、加賀百万石の繁栄の跡が随所に残り、
名城と呼ぶにふさわしい城だった。
《平成18年10月14日 登城》
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